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「遺族会」

2025年12月1日 月曜日

  この度、地元筑紫野市の「遺族会」の会長職を引き受けることになった。          
  1947年(昭和22年)、大東亜戦争戦没者遺族の全国組織として「日本遺族会」(当時は日本遺族厚生連盟)が創設され、市町村にも独立した遺族会が設立された。各都道府県には市町村遺族会の連合体としての遺族会が存在する。その目的は、戦没者の英霊顕彰と、遺族の福祉の増進、慰藉救済と、道義の昂揚、品性の涵養に努め、世界の恒久平和の確立に寄与する。と記されている。

  この大東亜戦争での死者は、戦死者数230万人、市民の死者数80万人、計310万人である。    
日本国全体としてはこの数字であるが、それぞれの家においては、家長である夫や父親が戦死し、妻や子供たちが、大きな悲しみに打ちひしがれたことは想像に難くない。
また、敗戦後に始まった連合国(GHQ)の支配によって、軍人恩給制度は軍国主義を助長するものとみなされ、打ち切られることになった。戦争未亡人など多くに遺族の生活は逼迫し、苦境に陥った。                                                        
このような状況下で遺族どうしが結束することで、苦境を乗り越えていこうという機運が高まり、各地方に遺族団体が設立され、全国組織として日本遺族厚生連盟が結成された。   
    
  私の父(高原萬寿夫)は、昭和18年久留米の第56部隊に入営し、満州・支那と転戦し、昭和21年生きて呉軍港に帰還した。私の叔父(高原萬治)は、昭和14年に入営、南方戦線(ビルマ)に派遣され、「龍」部隊で戦って、昭和19年9月7日中華民国雲南省垃孟で戦死した。26歳・・・。   
長男をビルマ戦線で亡くした祖母は、この長男のことや戦争のことを語ろうとしなかった。

  この戦争から80年が経過した。戦争未亡人や遺児たちは高齢になり、その子どもや孫の代に変わってきた。子や孫たちと、戦没者・遺族との距離は遠くなり、遺族会から脱会する人たちが増えている。                                                     
戦死した肉親は勿論、「この国の良き未来」を願って死んでいった先人を、国民全体がしっかりと敬う矜持が求められる。そして、今の日本に生きる我々が、「これからの日本をどうするか」を真剣に考える必要がある、と強く思う。

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 高原 要次

「思い描いた夢は必ず実現する(稲盛和夫)」

2025年11月1日 土曜日

  京セラの創業者で、KDDIや日本航空の経営者だった稲盛和夫氏は「経営の神様」と言われ、集約された多くの言葉がある。例えば「この世を生きている意味とは、自分の魂を磨いていくことだ」、「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」、「動機善なりや、私心なかりしか」、「困難は愛が形を変えたもの」、「環境が変わったら自分を変えよ」等々・・・。

  その中に、「思い描いた夢は必ず実現する」というのがある。この言葉を聞いたときに、私は思った。信じて頑張ることは大切だが、その夢を実現する段階においては、種々の困難や予期せぬトラブル、環境の変化があるだろうし、“必ず”実現する、とは言い切れないのではないかと。

  氏の出身大学「鹿児島大学」の稲盛記念会館前に銅像が建てられている、その碑文に「どんな逆境に遭遇しようとも/どれほど厳しい環境におかれようとも/挫けることなく/常に明るい希望を持ち/地道な努力を一歩一歩たゆまず続けていくならば/自分の思い描いた夢は/必ず実現する」と刻まれている。

  「思い描いた夢は必ず実現する」の前提があったのです。それは、どんなに厳しい環境であっても、挫けず明るい希望を持ち、地道な努力を続けていけば、というもの。そうすれば、その夢は“必ず”実現する、と。ただ漠然とした願望をボーッと思い、実現したらいいな~、では実現するはずがない。それと、この「思い」が重要なのです。

  彼の母校鹿児島玉龍高校で、氏は「君の思いは必ず実現する」というテーマで講演しており、その中で、「思い」について、こう語っている。                                    
  “「思う」ということが、人間のすべての行動の源、基本になっているのです。そのことは、二つの側面から捉えることができます。まず、我われが毎日の生活を送る中で抱く「思い」の集積されたものが、我われの人間性、人柄、人格を作り出しています。「自分だけよければいい」という、えげつない「思い」をずっと巡らせている人は、その「思い」と同じ、えげつない人間性、人柄、人格になっていきます。逆に思いやりに満ちた優しい「思い」を抱いている人は、知らず知らずのうちに、思いやりに溢れた人間性、人柄、人格になっていきます。
 さらに、「思い」はもう一つ大きな役割を持っています。それは、「思い」の集積されたものが、その人に合ったような環境をつくっていく、ということです。あるいは、「思い」の蓄積されたものが、その人の運命をつくっていると言っても過言ではありません。
 綺麗な美しい心で生きていく人は、素晴らしい人間性、人柄、人格になると同時に、その人の周囲にも、その人間性、人柄、人格に合ったような素晴らしい出来事が起こってきます。心に抱く「思い」というものは、それほど偉大な力を持っているのです。

  そうです、「思い描いた夢は、必ず実現する」のです。

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 高原 要次

「ニチボー貝塚」

2025年10月1日 水曜日

  先日、バレーボールSVリーグの試合を観に行った。一昨年まではVリーグとして各実業団チームが競っていたが、昨年から世界トップクラスのバレーボールリーグを目指して、準プロの14チームでリーグ戦を戦っている。コートのすぐ傍の「熱狂シート」で観戦したが、サーブやスパイク、ブロックの迫力に興奮した。流石に、プロリーグを目指すだけあって外国人も交えたメンバーの観客サービス、運営会社のチームマネジメントに感心した。かつての実業団リーグとは大きく異なる顧客意識である。 
                                                  
  私にとっては、女子バレーボールと言えば1964年の東京オリンピックである。大松博文監督率いる「日本」は、“東洋の魔女”と呼ばれた河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯部サダの「ニチボー貝塚」が主力であった。宿敵ソ連を破り、待望の金メダルに輝いた。日本中が歓喜の渦となり、この東京オリンピックを成功に導いた。

  太平洋戦争敗戦から11年後1956年、経済白書のタイトルは“もはや戦後ではない”として戦後復興の終了を宣言し、それ以降高度経済成長が始まった。そして1964年、新幹線が開業し、経済は好景気に沸き、この年東京オリンピックが開催された。まさに、日本の戦後復興の証が東京オリンピックであり、そのシンボリックな競技がこの大会から競技種目になったバレーボールであり、日本女子バレー(ニチボー貝塚)の金メダルであった。

 「ニチボー貝塚」は、1962年の世界選手権で優勝し、その褒美に世界一周旅行を行い、結婚適齢期を迎えたことから選手達と大松監督は引退を表明していた。しかし1964年の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定したことから、『是非東京オリンピックまで続けて欲しい』と、日本バレーボール協会幹部が日紡貝塚へ日参し、一般ファンからも5,000通もの手紙が届けられた。それを受けて、キャプテン河西が決断し、大松監督の“俺についてこい!”の一言で、選手達はオリンピックまで続けることを決意した。それからオリンピックまでの2年間は、選手は午前中社業に従事し、15:00から26:00まで練習。大松は16:00まで社業でその後練習に合流するというハードな日々をおくったという。

  1964年10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。テレビ放送にて決勝戦実況中継アナウンサーが「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。最後はソ連選手のオーバーネットの反則により日本の勝利が確定、金メダルに輝いた。
個人とチーム、選手と監督、チームと会社、の一体感。そして国民と国との一体感を感じるし、選手と監督の修行とも言えるトレーニングに敬意を表した。

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 高原 要次

「朋、遠方より来る有り、亦楽しからずや」

2025年9月1日 月曜日

  先月、南米ブラジルに行った。10年ぶり10回目のブラジルであるが、その目的は移住している先輩達を訪ねることであった。
  私の学生時代は、中南米研究会に所属し、「フロンティア」を掲げて海外移住や海外雄飛を志向していた。同じ志を持つ全国56大学で「日本学生海外移住連盟(学移連)」を組織し、毎年十数名を選抜し、実習生として海外(南米・北米・アフリカ等)に派遣した。私も1975年に1年間ブラジルに派遣された。
  この学移連の仲間のうち、かなりの数の学生が卒業後ブラジル・アルゼンチン・カナダ等に移住した。ブラジルでは、ある者はサンパウロ近郊で野菜作りをやり、ある者は牧場を経営し、アマゾンではピメンタ(胡椒)栽培やカカオ、アサイ、パームヤシを育てた。
  あれから50年。異国で種々の苦難を経験し、大きな喜びも味わい、今次の世代にバトンを渡そうとしている。ただ、皆歳をとった・・・。今、会わねばもう会えない・・・。

  「論語」の最初の章句「学而第一」は、「子曰く、學びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。朋、遠方より来るあり、亦楽しからずや。」から始まる。
  ブラジルに住む先輩方にとって、私の訪問はまさに「朋、遠方より来るあり」であった。彼らは皆、会った瞬間跳びあがらんばかりに喜び、歓喜するであろうと想像していたが、さにあらず。目を合わせて微笑みながら近づき、ゆっくりと握手する。そして一言“よく来たな・・・!”これで、離れていた数年のブランクは吹っ飛び、一気に学生時代の感覚が蘇る。老学生に、じんわりと悦びが沸いてくる。
  「朋、遠方より来るあり、亦楽しからずや」。「朋」とは、単なる友人ではない。志を持ち、同じ師や同じ門に学び、文字通り学びを共有した同志である。その「朋」が訪ねて来てくれて語らう。人生で、これほど嬉しい楽しい瞬間があろうか!

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 高原 要次

「積善と報徳」

2025年8月1日 金曜日

  中国の古典「易経」に、「積善之家必有餘慶(積善の家には必ず餘慶あり)」というのがある。それは、「善行を積み重ねた家には、その結果として子孫に必ず幸福がおとずれる」というものであるが、単に「善行を積み重ねていけばきっといいことがある」ということではない。
  つまり、善行を行っている本人に良いことが訪れるというのではなく、善行を積み重ねた家には、子孫に幸福がおとずれる。ということである。
  さらに続く、「積不善の家には必ず余殃あり(不善を積み重ねている家には必ず後世まで災禍が及ぶ)」と。

  二宮尊徳は、「善行」とほぼ同様のことを「徳行」と言っている。正確には「報徳」であるが、徳を以って特に報いる、と。
  物や人そのものにそなわっている「持ちまえ、取りえ、長所、美点、価値、恵み、おかげ」などを「徳」として、その徳をうまく使って社会に役立てていく(お返しする)ことを「報徳」と呼んだ。
  この考えは、「至誠」を基本とし、「勤労(きんろう)」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」を実行するというもので、この「報徳思想」を実践するのが「報徳仕法」であり、二宮尊徳は報徳思想を広め、実践することにより、ききんや災害などで困っていた多くの藩や村を復興した。

  ● 至誠: 「まごころ」のこと。二宮尊徳の仕法や考え方、そして生き方の中心となるもの。
  ● 勤労: 物事をよく観察・認識し、社会の役立つ成果を考えながら働くこと。
  ● 分度: 自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それぞれにふさわしい生活をすることが大切。また、収入に応じた一定の基準(分度)を決めて、その範囲内で生活することが必要。
  ● 推譲: 将来に向けて、生活の中で余ったお金を家族や子孫のために貯めておくこと(自譲)。また、他人や社会のために譲ること(他譲)。

  また、「大學」の冒頭には、「大學の道は明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善に止まるにあり」とある。
  どうも、基本の基本は天の命じた性に従い、道に沿って、善なること徳なるものを実践することのようである。

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 高原 要次

「ブラジルの大地が教えてくれた“フロンティア”」(2017年4月 財界九州寄稿)

2025年7月1日 火曜日

  1975年5月28日、第6次海外学生総合実習調査団の一員としてブラジルサンパウロのコンゴニアス空港に降り立った。それからの、彼の地での1年間の体験がその後の私の人生、仕事の礎となり、私の生き方の“原点”になった。
 福岡県筑紫野市の農家の長男に生まれた私が、鹿児島大学に入学した当時は「革マル派」や「民青」が学内でゲバ棒を振るい、シュプレヒコールをくり広げていた。そして1972年には、農学部の在校生岡本公三が、テルアビブ空港乱射事件を起こした。若者たちはエネルギーを持て余し、その矛先が「反体制」へと向かった者も多かった。しかし、私のエネルギーは、政治的な学生運動には向かわず「中南米研究会」に入部し、海外移住・海外雄飛の方向に向かった。共通テーマは“フロンティア・スピリッツ”
  全国56大学の中南米研究会・移住研究会で「日本学生海外移住連盟」を組織し、国際協力事業団や経団連のバックアップを受け、毎年10数人を「海外学生総合実習調査団」として、南米やカナダ、アフリカ、オーストラリア、イスラエル等に派遣していた。私は南米班の一員としてブラジルに派遣された。
 ブラジルでの実習先は、サンパウロの日系のスーパーマーケット「ヤオハンブラジル」。“君はブラジル語(ポルトガル語)はできるか?”“経済学部であれば、簿記はできるか?”と問われたが、いずれもNO。告げられた仕事は青果市場での荷物運び。その後、倉庫整理、店舗での売り子を経て、ようやく店舗管理の事務職に就いた時は半年が経ち、実習終了。この間、イタリア・ポルトガル・ドイツ等ヨーローパア系、アフリカ系、インディオ系そしてこれらの混血のブラジル人と共に働き、共に飲み食いし、サンバを踊った。いつしかブラジル語(ポルトガル語)も喋れるようになっていた。
  その後、長距離バスに3日間乗ってアマゾン河口の街ベレンへ、それから船で2日間河を遡上し、日本人移住地「トメアスー移住地」へ。ベレンに戻り、ここでハンモックを買って大型船に乗り込み10日間アマゾン本流を遡上し、マナウス(ベラビスタ移住地)へ。
一度サンパウロに戻り、またまた長距離バスでパラグアイのイグアス移住地、アルゼンチンの移住地を廻った。
  「トメアスー移住地」では、広大な熱帯雨林の開墾地でピメンタ(胡椒)が栽培されていたが、病害が広がりピメンタが全滅するなど、筆舌しがたい苦労を重ねてきたことを移住者から聞いた。マナススの移住者からは、6人の子供のうち3人をマラリアで失ったと聞いた。アルゼンチンの移住者からは、雹が一年に二度も降って花卉が全滅、一年間無収入だったと聞いた。そう語る移住者の顔には深い皺が刻まれ、なぜか表情は明るく穏やか、凛として“日本人”を生きている。
  戦前、戦後を通して日本からブラジルに移住した人は30万人。今、一世から六世まで160万人の日系人がブラジルに住んでいる。ブラジルの人口の1%弱である。日系人はブラジル社会に農業他広い分野で貢献をし、多大な信用を得ており“ガランチード”(信頼できる人々)と呼ばれている。
 ブラジルは人種の坩堝と言われるがごとく、多種多様な人がおり、気候も熱帯雨林から温帯まで、文化も多様。そしてブラジル人は、陽気で“いいかげん”。この“いいかげん”が実にいい。物事に一喜一憂せず、急がず、焦らず、“また明日”である。
  小中高と、決められたことを守り、矩を超えず、真面目だった私がブラジル人と働いて“いいかげん”になり、移住者と過ごして開拓者の本質を知った。
教育ビジネスで人を育て、百姓として土を耕す今の私。私の原点は、あのブラジルの1年間の体験である。“日本と日本人に誇りを持ち、他者と他国を理解し、明日を拓く”フロンティアは我にあり!

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 高原 要次

「5月27日は!」

2025年6月1日 日曜日

  今日は5月27日。福岡県福津市にある東郷神社の春季大祭の神事に参加した。1905年5月27日、この神社の沖合玄界灘で、日本の連合艦隊(司令長官:東郷平八郎大将)とロシアのバルチック艦隊(司令長官:ロジェストウェンスキー中将)の海戦が行われた。日本海海戦である。 

  旗艦三笠から、「敵艦隊見ユトノ警報に接シ聯合艦隊ハ直ニ出動之を撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ波高シ」、と大本営に打電されたのが5時15分。13時55分に、「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」、とZ旗を掲げ戦闘が始まった。そして、その日のうちに勝敗は決し、日本海軍の大勝利であった。

  日本の勝利、しかも完璧な勝利に世界は驚いたが、まさに乾坤一擲の戦いであった。もし、この海戦に敗れていたら、完璧でなく優勢な勝利であったら、日露戦争における日本の勝利はなかった。もしかしたら、この地はロシア領になっていたかもしれない・・・。その後、この日は「海軍記念日」に制定さて、太平洋戦争までは各戸に日の丸が揚がっていた。

  世界の三大提督とは、トラファルガー海戦でフランススペイン連合艦隊を打ち破ったイギリス軍のホレーショ・ネルソン。アメリカ独立戦争でイギリス艦隊を打ち破ったアメリカ人ジョン・ポール・ジョーンズ。そして、日露戦争でバルチック艦隊を打ち破った日本人東郷平八郎である。共通して言える事は圧倒的優勢であった相手艦隊を寡兵で撃破したと言う事である。

  イギリスの小学生でネルソン提督の名を知らない子どもはほとんどいないらしい。イギリスでは自国の歴史でその事実を教え、英国人のほとんどがトラファルガー海戦の勝利とネルソン提督を誇りに思っているとのことである。翻って、我が国の小学生はどうだろうか・・・。ほとんどの子どもたちは、日本海海戦のことを知らない。東郷平八郎の名前を知らない。彼らの親の多くも、日本海海戦を、東郷平八郎を知らない・・・。何ということだ・・・、日本人か!

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 高原 要次

「児孫のために美田を買わず」

2025年5月1日 木曜日

  先般、西郷隆盛の六代後の子孫の方と食事をした。有能なビジネスマンであり、ビオラとチェロの演奏家でオーケストラの一員として全国を飛び回る多才で多用な方である。彼から「西郷家二十四日会」幹事という名刺をもらった。西郷隆盛が鹿児島の城山で亡くなった九月二十四日に因み、毎月二十四日に西郷家一族が集うそうである。時折、島津家当主もご参加とのこと。

  「児孫のために美田を買わず」。これは西郷隆盛の遺訓として最も有名なものの一つである。西郷は言う、“人間というものは苦しい経験を何度も味わってこそ、志が堅くなる。男たるものは、瓦となって長生きするよりも、玉となって砕けるべきだ。そういう時がある。私の家の家訓を知っているか?子孫のために絶対に美田を買わない。つまり、財産は残さないというのがそれだ”と。

  これには二つの意味があるように思う。一つは、人間は何度も苦しまなければだめだ、大きな苦難があってこそ、その志が強固になる、という意味。これは、西郷が二回の島流し(奄美大島、徳之島・沖永良部島)にあったこと。島津斉彬のための京都工作をしたが失敗し、同志であった月照と一緒に鹿児島に逃げて、しかも海の中に飛び込み自分は助かり、月照を死なせてしまったこと等、自身の経験からきている。
もう一つの意味は、裕福な環境でのうのうと育ったのでは、自己の人生を切り拓こうとせず主体的に生きようとなしない。まして、人間の心の機微がわからず、私利私欲に走り、志など到底持てない。と

  親として、わが子に幸せになって欲しいと思うのは当然である。特に母親は、その慈愛からわが子を慈しみ少しでも裕福な環境を残したいと思うであろう。しかし、父親は義愛である。しっかりとした社会性を身につけさせる。まして、リーダーとして育てるならば「児孫のために美田を買わず」、時として苦難を与え、「放勲欣明、文思安安」を目指させる!

「日本学生海外移住連盟(学移連)」

2025年4月1日 火曜日

  今年6月に2週間ブラジルに行く。今回が10回目のブラジル、訪問の目的は移住した友人・先輩に会うことである。最初にブラジルの地を踏んだのは1975年、日本学生海外移住連盟の第6次海外学生総合(第16次南米)実習調査団の一員としてだった。

  当時、「日本学生海外移住連盟」(略称・学移連)という全国56大学が加盟して移住に取り組んだ団体が存在した。1955年に設立され、海外移住の啓蒙・移住推進に力を注いだ。1997年に閉鎖するまでブラジル・アルゼンチン等中南米、カナダなどに実習生を送り出し、OBもブラジルを始め世界各国に移住している。

 設立趣意書には「日本の海外への発展とその維持とは単に国内問題として取り扱われるべきではなく、国際視野のもとに世界人類、特に次の世代を担う学生の連繋協力によって解決しなければならない。―中略―新しい日本建設に当たり我々は斯くの如き視野に立ちつつ海外問題の研究とその解決とに努力し,且つ国際友愛精神による国際的寄与への第一歩を強く踏み出さんと欲するものであります。―中略―然るに海外移住に関する研究と推進とに関し、次の世代を背負う若き学生間に於いて、従来その全国的提携、協力が極めて欠ける点の多かったことに鑑み、茲に各大学有志の賛成を得て世界平和を祈念しつつ、日本学生海外移住連盟を設立せんとするものであります」とある。

  東京農業大学の杉野忠雄教授の「拓殖史観」を思想的なバックボーンとして、自己の「海外雄飛」というロマンを重ね合わせ、気概をもって移住していった。更には、グローバル・シティズンの先駆けとして、世界平和を希求する一員として海を渡った。

  ブラジルでは、ある者はサンパウロ近郊で野菜つくりや花卉栽培を。また、ある者はアマゾン河中流域で熱帯雨林を切り倒し、胡椒(ピメンタ)栽培を行った。皆、筆述しがたい苦労をしてきた。

  “朋友信あり”、ブラジルの友も歳をとった。早く会いにゆかねば・・・。

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 高原 要次

「志とは・・・」

2025年3月1日 土曜日

  母校の小学校から児童への「読み聞かせ」の依頼があり、引き受けた。さて、何を伝えようか、どの本にしようかと考えて、2冊を選んだ。

  ・「21世紀に生きる君たちへ」(司馬遼太郎)

  ・「未来を拓く君たちへ」(田坂広志)

  いずれも著者の心の底から湧き上がる若者たちへの期待と希望のメッセージである。先人には、次の世代を少しでも良くする責任があり、そのために生きてきて、最後に次の社会を担う若者たちに託す言葉を残す。それが、これらである。

  「21世紀に生きる君たちへ」(司馬遼太郎)は、人間の荘厳さ、21世紀に生きる君たちへ、洪庵のたいまつ、の3編でできている。人間は、はるかな過去から未来にのびていく鎖の一環である。そうではあるが、一人ひとりの人間はただその一瞬を経験するとき、過去や現在の誰とも無関係な真新の自分だけの心の充実だと思っており、実に荘厳である。と。また人間は自然の中で生きており、歴史の中の人々は自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。近年、人間は傲慢になり、自然へのおそれが薄くなってはいないか・・・。と。

  「未来を拓く君たちへ」(田坂広志)のメッセージは、君たちは2つの未来を切り拓いて行く、一つは「自身の未来」、もう一つは人類の未来。自身の未来を切り拓いていくことによって、人類の未来を切り拓くことになる。決して忘れてはならないのが「志」を抱いて生きる、ということである。「志」とは何か。与えられた人生において、己のためだけではなく、多くの人々のために、そして、世の中のために、大切な何かを成し遂げようとの決意。である、と。そして結びの言葉は、“人間成長という山道を登り続けてほしい。その道は、かならず、素晴らしい山の頂に続いている。そして、君は、かならず、その山の頂にたどり着くだろう。”である。

  この「未来を拓く君たちへ」を「読み聞かせ」しようと思ったのだが、私が手にした本は「世界の国大百科」だった。“世界197ヵ国の中で、日本が最も好きだという人が一番多い国が2つある”、“トルコとブラジル・・・、なぜそうなのか?それはね・・・”だった。
  

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 高原 要次