先日、バレーボールSVリーグの試合を観に行った。一昨年まではVリーグとして各実業団チームが競っていたが、昨年から世界トップクラスのバレーボールリーグを目指して、準プロの14チームでリーグ戦を戦っている。コートのすぐ傍の「熱狂シート」で観戦したが、サーブやスパイク、ブロックの迫力に興奮した。流石に、プロリーグを目指すだけあって外国人も交えたメンバーの観客サービス、運営会社のチームマネジメントに感心した。かつての実業団リーグとは大きく異なる顧客意識である。
私にとっては、女子バレーボールと言えば1964年の東京オリンピックである。大松博文監督率いる「日本」は、“東洋の魔女”と呼ばれた河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯部サダの「ニチボー貝塚」が主力であった。宿敵ソ連を破り、待望の金メダルに輝いた。日本中が歓喜の渦となり、この東京オリンピックを成功に導いた。
太平洋戦争敗戦から11年後1956年、経済白書のタイトルは“もはや戦後ではない”として戦後復興の終了を宣言し、それ以降高度経済成長が始まった。そして1964年、新幹線が開業し、経済は好景気に沸き、この年東京オリンピックが開催された。まさに、日本の戦後復興の証が東京オリンピックであり、そのシンボリックな競技がこの大会から競技種目になったバレーボールであり、日本女子バレー(ニチボー貝塚)の金メダルであった。
「ニチボー貝塚」は、1962年の世界選手権で優勝し、その褒美に世界一周旅行を行い、結婚適齢期を迎えたことから選手達と大松監督は引退を表明していた。しかし1964年の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定したことから、『是非東京オリンピックまで続けて欲しい』と、日本バレーボール協会幹部が日紡貝塚へ日参し、一般ファンからも5,000通もの手紙が届けられた。それを受けて、キャプテン河西が決断し、大松監督の“俺についてこい!”の一言で、選手達はオリンピックまで続けることを決意した。それからオリンピックまでの2年間は、選手は午前中社業に従事し、15:00から26:00まで練習。大松は16:00まで社業でその後練習に合流するというハードな日々をおくったという。
1964年10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。テレビ放送にて決勝戦実況中継アナウンサーが「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。最後はソ連選手のオーバーネットの反則により日本の勝利が確定、金メダルに輝いた。
個人とチーム、選手と監督、チームと会社、の一体感。そして国民と国との一体感を感じるし、選手と監督の修行とも言えるトレーニングに敬意を表した。
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