1975年5月28日、第6次海外学生総合実習調査団の一員としてブラジルサンパウロのコンゴニアス空港に降り立った。それからの、彼の地での1年間の体験がその後の私の人生、仕事の礎となり、私の生き方の“原点”になった。
福岡県筑紫野市の農家の長男に生まれた私が、鹿児島大学に入学した当時は「革マル派」や「民青」が学内でゲバ棒を振るい、シュプレヒコールをくり広げていた。そして1972年には、農学部の在校生岡本公三が、テルアビブ空港乱射事件を起こした。若者たちはエネルギーを持て余し、その矛先が「反体制」へと向かった者も多かった。しかし、私のエネルギーは、政治的な学生運動には向かわず「中南米研究会」に入部し、海外移住・海外雄飛の方向に向かった。共通テーマは“フロンティア・スピリッツ”
全国56大学の中南米研究会・移住研究会で「日本学生海外移住連盟」を組織し、国際協力事業団や経団連のバックアップを受け、毎年10数人を「海外学生総合実習調査団」として、南米やカナダ、アフリカ、オーストラリア、イスラエル等に派遣していた。私は南米班の一員としてブラジルに派遣された。
ブラジルでの実習先は、サンパウロの日系のスーパーマーケット「ヤオハンブラジル」。“君はブラジル語(ポルトガル語)はできるか?”“経済学部であれば、簿記はできるか?”と問われたが、いずれもNO。告げられた仕事は青果市場での荷物運び。その後、倉庫整理、店舗での売り子を経て、ようやく店舗管理の事務職に就いた時は半年が経ち、実習終了。この間、イタリア・ポルトガル・ドイツ等ヨーローパア系、アフリカ系、インディオ系そしてこれらの混血のブラジル人と共に働き、共に飲み食いし、サンバを踊った。いつしかブラジル語(ポルトガル語)も喋れるようになっていた。
その後、長距離バスに3日間乗ってアマゾン河口の街ベレンへ、それから船で2日間河を遡上し、日本人移住地「トメアスー移住地」へ。ベレンに戻り、ここでハンモックを買って大型船に乗り込み10日間アマゾン本流を遡上し、マナウス(ベラビスタ移住地)へ。
一度サンパウロに戻り、またまた長距離バスでパラグアイのイグアス移住地、アルゼンチンの移住地を廻った。
「トメアスー移住地」では、広大な熱帯雨林の開墾地でピメンタ(胡椒)が栽培されていたが、病害が広がりピメンタが全滅するなど、筆舌しがたい苦労を重ねてきたことを移住者から聞いた。マナススの移住者からは、6人の子供のうち3人をマラリアで失ったと聞いた。アルゼンチンの移住者からは、雹が一年に二度も降って花卉が全滅、一年間無収入だったと聞いた。そう語る移住者の顔には深い皺が刻まれ、なぜか表情は明るく穏やか、凛として“日本人”を生きている。
戦前、戦後を通して日本からブラジルに移住した人は30万人。今、一世から六世まで160万人の日系人がブラジルに住んでいる。ブラジルの人口の1%弱である。日系人はブラジル社会に農業他広い分野で貢献をし、多大な信用を得ており“ガランチード”(信頼できる人々)と呼ばれている。
ブラジルは人種の坩堝と言われるがごとく、多種多様な人がおり、気候も熱帯雨林から温帯まで、文化も多様。そしてブラジル人は、陽気で“いいかげん”。この“いいかげん”が実にいい。物事に一喜一憂せず、急がず、焦らず、“また明日”である。
小中高と、決められたことを守り、矩を超えず、真面目だった私がブラジル人と働いて“いいかげん”になり、移住者と過ごして開拓者の本質を知った。
教育ビジネスで人を育て、百姓として土を耕す今の私。私の原点は、あのブラジルの1年間の体験である。“日本と日本人に誇りを持ち、他者と他国を理解し、明日を拓く”フロンティアは我にあり!
ラーニング・システムズ
高原コンサルティングオフィス
高原 要次