「聖徳太子(厩戸皇子)と仏教、儒教」

 「聖徳太子」、昭和33年(1958年)より1万円札の絵柄になり、30年ほど流通していたので、日本人には馴染み深い。聖徳太子とは後世の尊称であり、実名は厩戸皇子。推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を行った。更に、仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。しかしまた、冠位十二階や十七条憲法をみると儒教の思想もまた色濃いことがわかる。
 
 「冠位十二階」とは、朝廷に仕える官人に授けられる官位制度である。ここに定められている大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智という全十二の冠位は、儒教の基本倫理である「五常」の徳目「仁・義・礼・智・信」、に「徳」を付加して6つにし、それぞれ大・小の2つに分けて十二冠位としている。儒教では、通常「五常」を仁→義→礼→智→信と並べるが、「冠位十二階」では、最上位に「徳」を置き、仁→礼→信→義→智という順序になっている。この順列にこそ、古代において理想的な国家の樹立を目指した聖徳太子の思想が表れている。「十七条憲法」で最も知られる冒頭の条文「和を以て貴しと為す」は、『礼記』のなかの「礼は之(これ)和を以て貴しと為す」や『論語』のなかの「礼の用は和を貴しと為す」が典拠である。十七条の中には儒教の経書に影響を受けたとみられる文言が数多く見られる。

 聖徳太子が生きた年代は、西暦574年から622年。儒教が日本に伝わったのが、継体天皇の時代の513年、百済より五経博士がもたらした。また、仏教伝来は538年(あるいは552年)とされている。儒教・仏教の伝来から100年も経たたないのに、この高度な知識を習得し、国つくりを行ったことに驚きを禁じ得ない。そのエネルギーをもたらしたものは何なのか、やむにやまれぬ事情があったのか・・・。
厩戸皇子に訊いてみたい。

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