「氷川清話」

 徳川の幕臣勝海舟は、幕藩体制瓦解の中、数々の難局に手腕を発揮し、江戸城を無血開城に導いて次代を拓いた。明治の世になり、晩年海舟が赤坂氷川の自邸で、歯に衣着せず語ったことが「氷川清話」として残っている。痛烈な時局批判とともに、辛辣な人物評が語られている。“おれは、今までで恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲である”と、語り始め、以下のような人物評論を行っている。

 西郷南洲 :“坂本が薩摩からかへって来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく
                  響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうといったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶこと
                  の出来ないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ”

 横井小楠 :“たいていの人は横井をとりとめの無い人だと言ったヨ。維新の初めに、大久保すら、小楠を招いたけれども思いのほか、だと
                  いって居た。しかし小楠はとても尋常の物尺では分からない人物だ。実際、物のよく分かって、途方もない聡明な人だったヨ”

 佐久間象山:“佐久間象山は、物知りだったヨ。学問も博いし、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際
                  の局に当たらしたらどうだろうか・・・。何とも保証は出来ないノー。

 木戸孝允 :“木戸松菊は、西郷などに比べると非常に小さい。しかし綿密な男サ。使いどころによりては、ずいぶん使える奴だった。
         あまり用心しすぎるので、とても大きなことには向かないがノ”

 島津斉彬 :“斉彬公はえらい人だったヨ。西郷を見抜て庭番に用ゐたところなどは、なかなか偉い。ある時におれは藩邸の園を散歩して
                  居たら、公は二ツの事を教えて下さツたヨ。それは人を用ゐるには、急ぐものではないといふ事と、一ツの事業は、十年経た
                  ねば取りとめの付かぬものだといふ事と、この二ツだツたツケ。”

 二宮尊徳 :“二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったヨ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人
                  を作る例は、おれは確かにみたヨ。”

 徳川の幕臣から薩摩人・長州人、殿様である徳川慶喜・島津斉彬から農村の二宮尊徳、あるいは坂本龍馬らの浪人等、種々の人物と実際に関わっての海舟の人物評であるが、その評価の基準はどこにあるのであろうか。翻って、それは勝海舟自身の基幹となる考えや信念、価値観であろうが、それはどこで培われたのであろうか。

 勝自身が語っている、“座禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の境を出入りして、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの効であった”と。

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高原 要次