「ビルマ戦線と拉孟守備隊」

 1944年9月7日、中国雲南省の高黎貢山系の南端にある拉孟(らもう)で、約1300名の日本軍第56師団第113連隊主力の拉孟守備隊が全滅した。第56師団は久留米の部隊であり、久留米に入営(龍部隊)した私の叔父高原萬治は、ここ拉孟で戦死した・・・。

 1941年12月のアジア・太平洋戦争開始以降、日本軍は東南アジアや中国大陸に対する南方作戦を開始した。この南方作戦の主な目的は、アジアにおける米英蘭等の南方補給地および軍事的要塞を占領確保し、同時に南方の石油資源等を獲得することにあった。また、日本軍が策定したビルマ進攻作戦には、資源要地の占領確保以外に別の狙いがあった。一つは、ビルマ工作の一環としてビルマ独立運動の志士らを扇動し、英本国の支配から分断すること、もう一つは北ビルマから重慶の蒋介石政権を支援する連合軍の補給路(援蒋ルート)を陸路で遮断することであった。

 ビルマ戦線で、最も大きな作戦は90,000人を越える人数を動員した「インパール作戦(日本軍名ウ号作戦)」で、援蒋ルートの遮断を戦略目標として、イギリス領インド帝国北東部の都市インパール攻撃を目指した作戦である。この作戦は、第15軍司令官の中将牟田口廉也の無謀と無能故に、後方の補給もなく雨期の山岳部での過酷な戦いを強い膨大な数の兵を死なせた。このインパールの大失敗により実に多くの部隊が巻き添えになり、犠牲を続発する。その最たるものが「拉孟の戦い」である。

 「拉孟の戦い」は、日本軍と中国国民党・アメリカ軍(雲南遠征軍)との戦いで、1942年頃には日本軍が優位に立っていたが、アメリカ軍の空輸によって近代的な装備を身に付けた中国軍が1944年6月2日から反撃に転じ、9月7日日本軍の全ての陣地が陥落し、戦闘は終結した。戦闘可能人員は一人もおらず、玉砕である。日本軍守備隊1300名、これに対し中国軍41500名、何と1:32。大砲・銃弾・火器等の武器は少なく、師団からの補給も困難の中、約100日間壮絶な戦いを展開した。

 この拉孟守備隊の壮絶な戦いの中に、我が叔父がいた。戦死した日付は9月7日となっている。

 父も久留米の部隊に入営し下士官として満州から北支に行っている。父は私に、彼の兄がビルマで戦死したことは語ったが、拉孟守備隊の詳しいことは言わなかった。祖母は、戦死した長男のことは一切語らなかった。

 今、こうして叔父のことを、先の戦争のことを調べてみると、「語り継ぐべき戦い」、「語り継ぐべき戦争」があるように思う・・・。

 

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高原 要次