「西郷南洲遺訓」

先般、熊本市川尻の延寿寺を訪れた。三州会(薩摩・大隅・日向)が主催する「西南役薩軍戦没者慰霊祭」に出席するためである。薩摩軍の熊本鎮台攻撃の本営が川尻に置かれて兵站基地になり、この延寿寺が野戦病院になった。官軍の鎮台があった熊本の地で、西南戦争終結直後から140年毎年地元の人々と一緒に慰霊祭が行われていることに驚いた。川尻駅から延寿寺まで徒歩で15分くらいであるが、街の家々に日の丸の旗が掲げてある。街全体が薩摩軍へ好意的だった表れであり、その源は彼らが接した西郷隆盛であろう。

 

『西郷南洲遺訓』というものがある、これは薩摩人ではなく旧庄内藩の藩士たちによって刊行されたものである。庄内藩は幕末、芝三田の薩摩藩邸を焼き討ちした。その後、上野の彰義隊が敗れ、会津の鶴ヶ城が陥落した後も最後まで抵抗したのが庄内藩である。降伏後、厳しい処分が下されると思われたが、予想外に寛大な処置が施された。それが西郷の指示であったことが伝わり、西郷の名声は庄内に広まった。明治に入り旧藩主酒井忠篤は旧藩士90余名とともに鹿児島に4か月滞在した。その後も、征韓論で下野した西郷を旧庄内藩士が幾人も訪れ、西郷と交わった。

 

明治22年(1889年)大日本帝国憲法が公布され、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻された。これを機に、上野公園に西郷の銅像が建てられることになり、この時西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。
四十一条からなるこの遺訓、為政者の基本姿勢を述べる第一条から始まるが、第四条は

 

第四条

万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。

国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。

ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。
今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。

 

戦略家であり戦術家である大西郷が、私学校党の乱を許し、総帥にまつりあげられ、一言の指示も発せず、最後は城山で自刃するのが何とも腑に落ちなかったが、第一条を理解した上で、この第四条をみると納得がいく。
乱を起こすつもりはなく、西郷軍の趣意書の通り、「政府へ尋問の廉有此」(政府に問いただすことがある)ということであり、文字通り新政府に物申すために鹿児島を発ったのである。
薩摩人に限らず川尻や荘内の人々が感化される西郷の偉大な人柄が感じられる。その軸は「敬天愛人」か・・・。

 

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