2014年10月 『西郷隆盛と佐藤一斎』

 書生時代を鹿児島で過ごし、桜島を仰ぎながら彼の地の歴史や風土に馴染み、自己の将来を模索したことは、その後の人生に大きな価値をもたらした。特に幕末・明治の薩摩の志士たちの物語に大きく影響された。西郷隆盛(吉之助)と大久保利通(正助)が代表であるが、私が抱く二人の人物像は司馬遼太郎や海音寺潮五郎の歴史小説から作られたものである。

  特に鹿児島では西郷隆盛の人気が高い。西南戦争の悲劇性や風貌からくる親しみもあるが、何と言ってもその人間性や器の大きさであろう。では、西郷の人間性や器の大きさを作りあげたのは何だったのか。今まで深く考えることのなく、薩摩の郷中教育や藩主である島津斉彬の影響、奄美大島・沖永良部島への流罪の体験、徳川討幕や明治政府設立の働きの中で培われた総合的なものだと思っていた。多分間違ってはいない。しかし、本質ではない。 では、本質的なものは何か。それは、佐藤一斎の書物「言志四録」である。 

 

 西郷は、遠島にあった時に行李3つ分の書物を持参したらしいが、その中に「言志四録」があり、獄中で繰り返し繰り返しこれを読み、特に琴線に触れた101条を抜き書きして、座右の箴とし「手抄言志録」としていた。「言志後録」の210条に“識量は知識と自から別なり。知識は外に在りて、識量は内に在り”と書かれている。識量とは、見識、胆識とも言われるもので、知識が経験と修行を経て、その人の血となり肉となってできあがるものである。西郷は、「言志四録」をまずは知識として吸収し、経験と修行を通して自己を作り上げ、その究極の言葉が“敬天愛人”なのである。

 「言志四録」とは、「言志録」、「言志後録」、「言志晩録」、「言志耋録」の四書の総称である。「言志晩録」の第60条に、“少くして学べば、則ち壮にして為すことあり、壮にして学べば、則ち老いて衰えず、老いて学べば、則ち死して朽ちず”とある、世に“三学戒”と言われる文章である。文字通り学びが人生を作る。

 

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