士は節義をたしなみ申すべく候

鶴の飛来で有名な鹿児島県出水市、此の地に「出水兵児(いずみへこ)修養之掟」というものが残っている。薩摩・大隈・日向の三国は、鹿児島に居城を置く島津氏が統治しており、領内各地には「麓」と呼ばれる出城を置いて、外部からの敵襲に備え、領内の治安に務めていた。ここに兵児(へこ)と呼ばれる武士がいた。彼らは倫理観が高く、かつ剽悍であり、“男らしく・武士らしく”と戒められた。出水の地は肥後の国との境、薩摩飛脚と呼ばれる徳川の隠密をはじめ薩摩への侵入を防ぐ重要な役割があった。その武士の掟が「出水兵児修養之掟」である。

08-10041「士は節義をたしなみ申すべく候
節義のたしなみと申すものは 口に偽りを言わず 身に私を構えず
心すなおにして作法乱れず 礼儀正しくして 上にへつらわず 下をあなどらず
人の患難を見捨てず おのが約諾をたがえず かいがいしく 頼もしく
かりそめにも下様のいやしい物語悪口など話のはしにも出さず
たとえ恥を知りて首刎ねらるるとも 己がなすまじきことをせず
死すべき場をひと足もひかず その心鉄石のごとく
また温和慈愛にして 物の哀れを知り 人に情あるをもって
節義のたしなみと申すものなり」

 

この掟は出水郷三代地頭の山田昌巌の訓と言われている。
薩摩には「郷中教育」という武士の子弟を育てる教育システムがあった。青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分け、勉学・武芸・山坂達者(体育)を通じて、先輩が後輩を指導し、強い武士をつくろうとするものであった。年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな、ということなど、人として生きていくために最も必要なことを教え込んだ。特に出水では、この「出水兵児修養之掟」を基本にして子供達が鍛えられ、凛とした薩摩隼人に育っていった。人は教育されて「人」になり、その教育が国の礎である。明治維新が成った背景には、士道を日常の規範とした剽悍な薩摩兵児の存在があったのである。(高原要次)