他国に学び、異国で学べ

08-09101鹿児島中央駅前の広場に「薩摩藩英国留学生」の銅像がある。幕末の1865年、薩摩藩は15名の藩士をイギリスに派遣したが、当時江戸幕府は日本人の海外渡航を禁止しており、彼らはいわゆる密航留学生であった。

その背景には、1863年(文久3年)の薩英戦争で強大な西欧文明に屈した薩摩藩が、攘夷というものがいかに愚かな政策であるかを実感し、逆に西欧の知識や技術を積

極的に吸収して藩(国)の力を増強させる方に転換したことがあげられる。 また、当時すでに亡くなってはいるが、英明と謳われた藩主島津斉彬の世界観や、その思想を受け継いだ西郷隆盛や大久保利通らリーダーの意思決定が働いていることは言うまでもない。 海外に赴いた幕末・明治の志士や留学生が、短期間の滞在や留学でものごとの本質を捉え、そのシステムをまるごと理解し、日本に移植したことに驚愕する。それは、政治・軍事に限らず、自然科学、社会科学全般におよぶ。何が、それを可能にしたのか・・・。

 

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もし、彼ら留学生と日本政府に招聘された外人教師がいなければ、近代日本を作り上げることはできなかったであろう。 平成の今、日本から多くの留学生が海外に赴き、同様にアジア・アフリカから沢山の留学生が日本に来ている。総じて日本からの留学生は「自分のため」に留学し、日本への留学生は「自分のため」とともに、母国への貢献も重ね合わせて学んでいる。

先日、我が家に9人の留学生が遊びに来た。“母国ミャンマーに新しい農業技術を持ち帰り、収穫量を上げたい・・・”、“母国セネガルに、バイオテクノロジーの技術で貢献したい・・・”、“母国ナイジェリアに、統計経済学を普及したい・・・”喜々として語る彼らに明治の日本人留学生がダブってみえる。 日本は短期間で近代国家の礎を築き、1905年に日露戦争で勝利を収める。明治になって僅か38年である。この時の連合艦隊司令長官東郷平八郎も、1871年からイギリスに留学している。彼が在学した「Merchant Navy College(商船学校)」の考課表が残っているそうだ。

能力(Ability)はGOODで、行儀・品格はVERY GOODと記されているそうだ。そして何より、静かな気迫が特徴的だったそうな・・・。(高原要次)