「元号昭和と吉田増蔵」

  先般、福岡県みやこ町の「みやこ町歴史民俗博物館」に行った。「昭和100周年と吉田増蔵」特別展を観るためである。福岡県北東部、大分県に近いこの地を訪れるのは初めてであったが、この農村部に、幕末から明治初期に漢文を学ぶ多くの若者がいたことに驚いた。それは、村上仏山の「水哉園」をはじめ私塾が多数あり、ここに漢文化が花開いた。その若者の一人に吉田増蔵がいた。彼の父、兄ともに「水哉園」で学んだ。

  吉田増蔵は、慶応2年(1866年)みやこ町勝山で生まれ、「水哉園」で学んだ後明治16年(1883年)に上京、共立学校で英語を学んだ後、アメリカに渉る。帰国後、再び漢学の勉強を行い、中等教育検定試験に合格、明治34年(1901年)宮内省判任文官試験の合格し、宮内省御料局に勤務する。

  大正9年(1920年)、増蔵は宮内省図書寮の編集官となる。図書寮は、皇統譜・御料台帳や天皇・皇族などの実録、図書の保管出納などをつかさどった部局である。増蔵の上司である図書頭は、軍医で作家の森鴎外であった。鴎外の強い信頼と引き立てによって、増蔵はその後、大正天皇崩御に際しての、宮内大臣より新元号創案作成の内命を受けることになる。

  増蔵は、「神化」、「元化」、「昭和」など10案を作成した。別の5案(宮内省御用掛の国府種徳案)とともに、枢密院会議に諮られ、増蔵案の一つ「昭和」が新元号に決定した。

  「昭和」は書経の一文「百姓昭明 共和万邦」からとったもので、「全ての人民は明るく、全ての国は和やかに」の意味であった。
 
  地方から出てきた漢学に長けた一官僚が、「昭和」という元号の創案者であるとは、大きな驚きであった。

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